タラップを降りたそこは、<AO>とはまるで違っていた。匂いも、空気も、肌で感じるすべてのものが幾層にも重なって一帯を包んでいる。何かが朽ちる甘ったるい臭気を、湿りけをたたえた風が砂ぼこりと共に運んでくる。遠く見える建築物はどれもいびつで、その不均衡さが一時的なバランスをどうにか保っているように見えた。
そして、音。
耳を澄まさずとも、目の前の景色のそこかしこからいくつもの音が生み出されているのがわかった。拍動は地面を伝い旋律が空気を震わせ、遠く離れた私の皮膚を打つ。振動する弦、打ち鳴らされるビートに、人がつむぐ調べが重なる。音、音楽、歌。
「どうして忘れていたんだろう」
AOで感じた小さな引っかかり。あの街には歌がなかった。それはまだいい。なぜ私は思い出せなかった? その問いに向き合うと、芝生に入ったときの違和感が、実体を伴ってよみがえってくるようだった。歌ではなく、消されていたのは、歌の概念そのもの。それが街だけじゃなく、私の記憶からも、思考からも消失していた、ということ。
「そんなことが可能なのかな……」
つぶやいてみたが、“外の世界”から人間を呼べるような街だ。AOの先進性は身をもって知っている。しかし、誰が、なんのために——手がかりが少なすぎるがゆえに、脳裏にはいやでもあの人物が浮かんでしまう。気づけば、右手が左手首の<ビーイング>に伸びていた。乳白色の不思議な質感をなでていると、なぜだか心が落ち着く。大丈夫、リオにもう一度会って聞けばいい。彼ならちゃんと答えてくれるはず。
決意を込めて顔を上げると、共に<舟>に乗ってきた人たちはいつの間にかいなくなっていた。振り返ると、大きく傾いて着水している船体が目に入る。近寄って見ると、素人目にも補修に補修を重ねた跡や、どこかにぶつけたへこみとか、あったはずの部品を想起させる欠損が目立つ。さほど長くない距離とはいえ、これに乗って飛んできたのか。いまさらながら背筋に冷たいものが流れた。
「何してるの?」
誰もいないと思った船体から声が聞こえ、私は身を硬くした。舟の奥の暗がりから出てきた声の主は小柄な少女で、好奇心に満ちた表情でこちらを見つめている。首元には、ノアと同じような首飾りが光っていた。
「あなた、今舟で来た人でしょう。こんなとこにひとりでいたら迷子になっちゃうよ」
「あ、ありがとう……」
少女は唐突に私の手を握った。
「あたしはシュカ。さあ、行こ?」
どこへ行くの。私はなぜここの来たの? 私の戸惑いを気にすることなく、シュカは手を引いて駆け出した。何度も転びそうになりながら、足の裏で荒れた地面を、つないだ手から汗ばんだ体温を感じる。
*
人々は歌を歌い、そうでないものは楽器を鳴らし、何も持っていない人は赤土の地べたを叩いていた。音の洪水、いや濁流だ。誰かが打ち鳴らす拍に、ほかの誰かが旋律で応える。ユニゾンになった歌声が枝分かれして和になったかと思えば、転調を繰り返して消えていく。そして新たな調べが生まれ、いつしかなくなる——。私は押し流されないように心を保つので精いっぱいだった。
上空からは島のように見えたノアたちの根城は、その実2本の川に挟まれた細長い中洲だった。シュカが案内してくれた建物は、元はAOでよく見かけた変哲もないビルらしかったが、無計画な増築に無秩序な改築が重ねられた結果と思しき危ういバランスは、どこか南国の大樹を思わせる。その中で今、音の発生と消失の循環が同時多発的に、目まぐるしい速度で行なわれていた。大勢の人に紛れ、シュカの姿はすでにない。背伸びをして見ると、人ごみの向こう、喧騒の中心にノアがいた。彼女の横には、舟のステージで見たふたりの女性の姿もある。ちらとこちらを見やったノアと目が合ったとき、私は現実に引き戻された。
私は、何かとんでもない間違いをしてしまったのではないか。<ケルビム>を通して、リオも警告してくれていたじゃないか。フォメンター、その言葉が意味するものは何かわからないが、目の前にいるのは、いわばお尋ね者とその一味。急激に這い寄ってくる不安から逃れようとかき抱いた手が、何かに触れる。心を落ち着けるようなハプティクス反応が返ってきた。
そうだ、ビーイングを使えば、位置情報ぐらいは。いや、ケルビムが一箇所でもあれば、ビーイングのインターフェースになる、ってリオが教えてくれた。ううん、たとえ連絡が取れなくても、ビーイングを着けてさえいれば位置情報ぐらいは知らせられるかもしれない……必死で思考を巡らせていたせいで、大股でこちらに歩いてくる人物に気がつかなかった。あっと思ったときには、ノアは私の左腕をつかんで、たかだかと掲げていた。
「この島で、こんなものつけないで」
驚く私を気にもとめず、ノアは手に力を込めた。乳白色のビーイングの表面の模様が急速に変化し、鬱血(うっけつ)したように変色していく。ビーイングの弾性のおかげで痛みは感じないが、そうとう強い力を加えられている。振りほどこうと身をよじった瞬間、ビーイングに亀裂が走った。
「痛……」
鋭い痛みと共に、ビーイングが砕け地面に散らばる。何事かと、皆が歌うのをやめてこちらを見た。ノアは口の端を上げ、宣言するように言った。
「選ぶのは、いつだって私なの」
ビーイングはバラバラになってもなおビープ音を発していたが、かけらをノアが踏み潰すと、それも完全に沈黙した。
「何するの」
歌がやんでもなお騒がしかった周囲が、一瞬だけ静まり返った。それぐらいの大声だった。自分でも驚くぐらいの。
「何って、自由にしただけ。どうしたの、怒ってるの?」
ノアはきょとんとした瞳でこちらを見つめ返した。その表情が、私の怒りをさらに掻き立てる。
「怒ってる、怒ってるよ。そんなの自由じゃない、ただの自分勝手じゃない……」
これはただのデバイスじゃない。ううん、AOの人たちからしたら、無料で貸与される端末に過ぎないかもしれないけど。私がこの世界で頼れるのはリオだけなんだ。ビーイングは、私が、リオに、AOに、受け入れられたことの証(あか)し。そうだ、リオはなんて言ってたっけ。そう、「人の自由を毀損しない」ってやつだ。あのときは意味がわからなかったけれど、今、わかった。AOを出た瞬間に思い知らされるとは。
「あなたのもの、ね。それ、本当に自分で選んでつけてたの?」
「それは……」
そうだ、とは言えなかった。<ネクサス>で目覚めたときにはつけられていたし……でも、だからって勝手に壊していい理由にはならないに決まっている。
「どこかの誰かが勝手につけたもの、それを私がどうしようと勝手でしょ」
言葉を失った私に、ノアは勝ち誇ったような表情を見せる。勘違いしないでほしい。私が黙ったのは言い負かされたからではない。論理が飛躍している。飛躍しすぎて破綻している。言い返したかったが、頭に血が上りすぎて言葉が出てこなかった。
「そんなんだからビーイングなんかに操られるんだよ」
「操る? 私は操られてなんかない」
反論しつつも、心の中で首をひねる。ビーイングで、操るって?
「そう。じゃあ、あなたは、来たくてこの島に来たんだよね。自分の意思で」
「ええと……」
私はノアに反抗したことを後悔し始めていた。彼女は、私の隠しておきたいところを的確に突いてくる。あのとき衝動的に動いた足。あれは私の意思だと断言できるだろうか。それに、ノアの歌声は、私に歌を思い出ささせた。あの力は何? 考えあぐねていると、彼女は不満げに鼻を鳴らした。
「はっきりしないなぁ。それとも何、誰かがこの子を連れてきたっていうの?」
ノアは周りを見回したが、皆首を横に振った。やけに絡むな、言い返したのが気に入らなかったのかな。
そうだ、ノアを探してほしい、というリオの願い。私がここに来たのは、リオの頼みを遂行するため、でもある。だけどそれじゃ、私の意思とは言えない? でも、リオに応えたい、と思ったのは、私の意思でもあるわけで……。ちょっと待って。なんか論点をずらされていないか。とにかく、私のビーイングはただの端末じゃないの。あなたたちのものとは違う、私は……
「違う、私はリオに」
思わず口を滑らせた私に、わずかに聞こえていた話し声も完全にやんだ。もはや、周囲の全員がこちらを見ている。
「へえ。リオに、ねえ……」
ノアは激昂(げきこう)するでもなく、独り言のようにそう言うと、唐突に顔を寄せて私の目をのぞき込んだ。黒い服で包まれた華奢(きゃしゃ)な体は、舟のステージで見たときよりずっと小さく見える。あのときの神々しさはどこへやら、間近で見ると横暴でがさつな少女にしか見えない。ただ、その瞳だけが燃えるような光を放っていた。顔を背けようとしたが、ノアの眼光は目をそらすことを許さなかった。
「待って」
歌姫の首に光る黒いチョーカーに、自分のおびえた顔が映り込む。私はなんとか声を絞り出した。
「待って。今のは違って……」
「ねえ!」
ノアは振り返ると、群衆に向かって呼びかける。腰の力が一気に抜けた私は、地面にへたり込んだ。
「この子の住むとこ、どこか教えてあげてよ」
「だから待ってよ。私まだ、住むなんて言ってない……」
といったところで、四方は水に囲まれている。そう簡単に帰ることなんてできやしない。ノアもわかっているから無視して話を進めようとしてるんだ。
「ねえ、誰か! そうだ、βに空きがあったんじゃなかったっけ?」
それとももう、私に興味を失ったのだろうか。それもそうだ、ここにはこんなにたくさん、ノアに引かれてやって来た人がいるんだもの。
「発(た)つ前に何度も言ったろう、ノア。もうこの<島>はいっぱいだって」
ノアのそばにいた大柄な男性が、あきれたように言う。
「βもさっき割り振った人たちで埋まってる。空きなんてないよ」
「そうなんだ。この島、狭いからね……」
ノアはけろりとして言った。
「そうなんだ……じゃないだろう、ノア。どうするんだ、あの子」
大柄な男性は困ったように頭をかく。私は助けを求めるように、男の人を見る。少なくともノアよりは話が通じそうだ。と思ったのもつかの間、ノアは少し怒ったように言った。
「あのね、私は歌いたいから歌っただけ。ついてきたいならくればいいんだし、誰も強制なんてしてないでしょ。ここではみんなやりたいことを勝手にしたらいい」
「それはそうだが、しかし」
「だから! その先どうなろうと知らないってこと」
この話はおしまい、とばかりに、ノアはきびすを返して去った。男性は肩をすくめてみせる。いざないはしても、あとは水に落ちようがお構いなしってわけね。無責任な……。どこで寝ればいいんだ私は。食べるものはあるのか。
「ちょっと待ってよ、私、どうすればいいの……」
AOでは何も選ばなくてよかったのに。それが無責任で見当違いな考えであることはわかっていたが、情けないことにそう懇願するほかできることはなかった。
足を止めたノアが、群衆に向かって呼びかける。
「シュカ! ねえシュカ、いる?」
小動物のように人がきから飛び出てきたシュカに、ノアはぞんざいに言った。
「この子、あんたんとこ泊めてあげれば」
こくり、とシュカがうなずいた。
「でもどうして、ノア?」
「なんか変なやつだから」
とりあえず、今夜の寝床は確保できそうだけど。これからどうすればいいのだろうか。再開された音楽は、おそらく夜通し続くのだろうな、と私は熱っぽい頭で思った。
ようこそ、AOの物語へ。
あなたの思考、選択、行動、それらすべてが、
未来に確かに届いて、新しい世界を生み出しています。
この物語に触れて、あなたの行動が変わることで、
あり得たかも知れない世界は、
語ることができる未来に変わります。
私たちとともに、
世界を、未来を、共にかたち創りましょう——