EPISODE 04
放たれる魂、響くは歌

「ノア……って、誰?」
「さっき飛んでいた舟。人影が3人、見えただろう? あの真ん中、舟を率いてる者の名だよ」
「はあ? 無理だよ。無理に決まってるじゃん、そんなこと。警察、とかってあるはずでしょ。AOにだって!」


私のいたところにだって、警察ぐらいあった。空中に消えたように見えたけれど、だとしても、あんな派手に立ち回って、捕まらないなんて。
「ノアの……舟には、AO市民にのみ働きかける何かがあるみたいなんだ」
「無理だよ。いくらリオの頼みでも、ノア、って」


ノア。その言葉を口にしたとたん、先刻の地響きがよみがえり、私は思わず両腕で体をかきいだいた。平和が戻ってきた今、記憶の中の恐怖はより鮮明になった気さえした。その中心で口を開けているのは、轟音や巨大な舟への恐れではない。あの音の嵐の中、自分の声さえ聞こえない空間で、他人を突き飛ばしながら舟に追い縋(すが)る人たち。混沌を先導する舳先に立つ、それがノア。私は震える声で絞り出す。


「あのとき、どうしてみんな舟を追いかけていったんだろう。あんな……うるさい舟を。全然わからない、わからないことが、なんだかとても怖いの」
私はゆっくりと腕を下ろす。指先が白く、冷たくなっていた。
「捕まえてくれって言ってるわけじゃない。見てのとおり、ノアは神出鬼没なんだ。AOの人間では、たとえネクサスのオペレータでも、追いかけることすらできない」
「追いかけることも、できない……」


舟を追いかけていった人たち。彼らは明らかに様子が変だった。AOで、人を突き飛ばして走っていく人なんて見たことがない。でも、操られてついていった、っていうのともまた違う。矛盾するみたいだけれど、彼らは自発的に舟についていっていた。まるで、ノアを待っていたかのように。確かそういう寓話があった。ドイツの、ハーメルンの……でも彼はどうやって、子供たちをつれていったんだっけ。ううん、そんなことは今どうでもいい。


「ノアは、なんのためにこんなことをやっているの」
「こんなこと?」
「これみよがしにあんな舟で乗りつけて。リオが探してる、ってことは、捕まるかもしれないんだよね。で、何をしてるんだろう」
「フォメンター……煽動する者、とわれわれは呼んでいる」
「煽動……」
何を煽っている? カルトの教祖、みたいな感じなんだろうか。不快な音をたてながら空を行く舟。調和とは程遠い存在。


「リオの頼みはわかったよ。そして、なんで私を呼んだのかも。でも、外の世界の人なら、誰でもよかったんじゃない? いや、私より適任の人がいたはずじゃない」
「UMDに関しては、僕たちもわからないことが多いんだ」
「UMDって、ただの機械でしょ」
「違う。UMDは、<ビーイング>やケルビムと同じく、近い将来AOの根幹を成しうるシステムだ。つまり、街が、君を選んだんだよ」
街が呼んだって、そういうことだったんだ。リオが選んでくれたわけじゃないのか。私はやけに冷静な頭で理解した。


「だから君に、ノアを探してほしいんだ」
何が“だから”だ。久しく感じていなかった感情が、目の奥で耳障りな音をたてる。
「リオが私を選んだのなら、考えたかもしれないけど」
自然と冷たい声が出た。そもそも、勝手に呼びつけられた身なんだもの。いつ帰ったって、私の自由なはず。
「街の言うことなんて、私聞かない。リオはずいぶんAOを信頼しているんだね」
精いっぱい皮肉を込めてそう言うと、私はひとり、来た道を歩き出す。むろんひとりで歩いたことなんてない道だったけれど、なぜだか迷う気はしなかった。


「君に、ノアを探してほしいんだ」
私はひとりAOを歩きながら、あの日のリオの言葉を反芻(はんすう)する。結局、私はいまだずるずるとAOにいた。元の世界に帰して、とひとこと言えば終わる、簡単なこと。それなのに、リオに告げられずにいた。リオが部屋に来る予定があれば大手を振って頼めるのだが、あの事件があって以来、4日続けてリオは部屋を訪れなかった。
明日も来なければ、オペレータに頼んでリオを呼び出そう——そう思って起きた今朝も、リオが部屋に来る予定はなかった。その代わりケルビムが表示したのは、AOの単独外出許可証だった。思えば、AOに来てからというもの、リオなりオペレータなり誰かが常にそばにいる。最後にひとりAOを散策して、夕方リオに帰してくれるよう頼めばいい。予定が入ると、数日間沈んでいた気持ちが少しだけ軽くなるようだった。


ネクサスから15分ほど歩き、私はいつかの噴水の前にいた。縁に座り、しばし考え込む。ノア、フォメンター、UMD。街は、どうして私を選んだんだろう……と考え、いやいや、もう今日帰してもらうんじゃないか、と思い直す。考えたって仕方ない。それにノアが何をしようと、よく考えれば初めから私には関係ないことなのだ。でも、私がいなくなった後はどうなるんだろう? そうすれば、またほかの誰かが呼ばれるのかもしれない。AO市民じゃなければ、誰でもいいのかもしれないし……。
いや待て、と不穏な考えに思い当たる。あの日見た、UMDが強奪されたいう報道。複数台あるのかもしれないけど、試験段階という言葉からその望みは薄いのではないだろうか。UMDがないと、元の世界にも帰れない……?

視界が暗くなったのは、そのときだった。巨大な影の中にいる、と上空を見上げたが、そこには青空が広がるのみ。ただ、何かの予兆のような振動が伝わる。芝生に、足に、耳の奥に。次第に多くなっていく振動とともに、青空にノイズのようなものが走る。いびつな直線が、何かを形作っていく。

ノアの舟だ。しかし、初めて見たときと異なり、手を伸ばせば届くぐらいの距離にそれはあった。私の真上から、降下を始めている。私はあわてて駆け出した。



砂ぼこりを巻き上げ、機体が広場の中央に着陸した。巨大な甲殻類を思わせる機体。エンジンの駆動音がやむ。しかし沈黙は一瞬のことで、すぐさま船体は金属音を立てながら震え出す。何かが回転する甲高い音と共に、舟の側面が変形している。側面から迫り出してきたのは地面と水平の板状の部品で、その中央には3人の女性がいた。ノアだ、と誰かが中央の人物を指さしつぶやく。ノア。フォメンター。煽動する者、調和を乱す者。恐ろしい人物かと思っていたが、小柄な女性だ。私は拍子抜けした。ノアの外見にも、彼女が簡単に見つかったことにも。


ノアは微動だにしない。機体も完全に沈黙し、一帯に再び静寂が訪れる。しかしそれは、以前までの平和な静けさとは異なるものだった。これから何が行われるのかわからなかったが、この沈黙は間違いなく、予兆の緊迫に満ちていた。張力の限界まで、引き結ばれた弦。視界すべてのケルビムが赤と黒で点滅している。
逃げ出すべきか。しかし私の足は動かない。むしろ、もっと近づきたい衝動に駆られる。いや、リオに連絡しなければ。ビーイングに触れようと右手を動かそうとした瞬間、拡声器を持ったノアが、おもむろに口を開いた。

「選ぶのは、常に私」

次いで、目を見開いた。漆黒の瞳に応えるように、私の左手がかすかに震えた。ビーイングが反応している。でも、今回は違う。いつもの穏やかな振動じゃない。まるで、何かに抵抗しているみたいだ。フォメンター、ノア。いったい何を――
ノアの口から発せられた音に、空気が揺れた。質量を伴っていると錯覚するほどの大音声が大地を揺らす。両隣の女性も、ノアに合わせて言葉を発する。エンジンの駆動音をはるかに上回る空気の波が、体を、街を容赦なく打った。


「何よ……なんなの、これ!」
叫んだが、自分の声すら聞こえなかった。煽動、これが? 冗談じゃない。ノアは確かに何かを叫んでいる。しかしその言葉はあまりに抽象的で、理解しようとするそばから意味を失っていく。そして何よりもこの大音量。土ぼこりが舞い、水路にはさざ波が立った。産毛はぞわりと逆立ち、地面が波打っているような気さえする。さらなる大音声に備え、私は耳をふさごうとした。
――私は、なぜ耳をふさごうとした?
私は音を遮断すべく上げかけた手を止める。さらに一段階上がったボリュームが耳朶(じだ)を、全身を打つ。私は予想したのだ、次に来るべきであろう音を。どうしてそのようなことができるのか。ノアは調和を乱すもの、無秩序の権化。
「違う」
ノアたちが発する音は、無秩序ではなかった。混沌であることは疑いようがなかったが、それでも、その中には抑揚が、韻律が存在した。一見意味をなさない言葉は、幾重にも重ねられた音の階層に乗り像を結んだ。星と星が星座を結ぶように。それは、AOにないもの。循環する律動と旋律。鼓動。
「それがこの街の美しささ。皆が自然に、調和して動く。それぞれが自分の役割を理解し、他者を思いやる。それはまるで……」
あの日、リオは確かにそう言った。その続きを、私は知っていた。彼は、私は、こう言いたかったのではなかったか。
「これは、音楽……歌?」
音がやんだ。私は上げかけていた手を完全に下ろしていた。見渡すともう、耳をふさいだり座り込んでいるものはひとりもいない。皆、ステージのノアを見つめていた。
「やっと思い出した?」
そういって笑った彼女に、私はほとんど泣きそうな顔でうなずいた。問いは短かったが、今はそれで十分だった。ノアの野性味を感じさせる犬歯が光った次の瞬間、再び一帯を大音声が包む。体に響くリズム、魂を揺さぶるような旋律。今度ははっきりとわかった。機体から響く脈動に心臓が同調し、血液が沸き立っていく。歌だ。この街には、歌がなかった。でも、どうして?
「あなたたちの魂が」
ノアの声が響く。まるで魔法のように、彼女の歌は私たちを引き寄せる。AOから失われていた歌が、今、ここにある。
「本当にそこにあるのなら――」
彼女は左手を高々と掲げた。その手首には何も巻かれていない。皆、つられるように左手を上げた。視界に乳白色の腕輪がきらめく。
「私たちと一緒に!」
隣の男性が、掲げた左手を地面に向かって振り下ろした。鈍い音とともにビーイングが砕ける。男性は機体に向かって走り出した。彼を追うように、ひとり、またひとりと聴衆が駆け出していく。巨大な機体の側面、ステージの下部分がゆっくりと開く。そこにはノアの仲間と思(おぼ)しき集団が乗っており、皆手招きするようにこちらに手を振っていた。ついてこい、とでもいうように。
私の足は一歩、また一歩と機体に向かって歩みを進めていた。群衆にあらがおうと思えばできたはずだ。しかし、私の体はそれを拒否していた。ノアの歌は、私の中の何かを呼び覚ました。忘れていた感情、失われていた記憶の断片。
ケルビムの赤と黒の点滅が早くなった。熱狂の渦の中のケルビムは、まるでステージの舞台装置のようだった。恐らく引き返すように市民へ訴えかけているのだろうが、朦朧(もうろう)とする頭では発せられる意図がよくわからない。ケルビムを通して、リオの声がかすかに聞こえる気がする。今なら引き返せる、行ってはいけない――その声が次第に遠ざかっていく。
「来て。自由が欲しいのなら」ノアの声が、近くで響く。
私は、決断した。
私はAOの静止を振り切るように走り出した。輸送機のゲートが閉まりかける寸前、私は体を投げ出すようにして滑り込んだ。
全身が、AOに来て初めて感じる高揚感に包まれていた。

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ようこそ、AOの物語へ。

あなたの思考、選択、行動、それらすべてが、
未来に確かに届いて、新しい世界を生み出しています。

この物語に触れて、あなたの行動が変わることで、
あり得たかも知れない世界は、
語ることができる未来に変わります。

私たちとともに、
世界を、未来を、共にかたち創りましょう——

AO
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