EPISODE 03
騒乱の舟、空を裂いて

「君がいた世界は、どんなふうだった」
リオとの外出は3度目だった。彼が、私の元いた世界のことを尋ねるのは珍しかった。
「そうね。こことは変わってるものもあるけど、変わらないものもある」


自転車の形もそうだし、それに、 AO市民だって、雨が降ったら傘を差すだろうし、電車に乗って職場にも行くのだろう。元いた世界——“外の世界”の私のように。私が黙っていると、リオがこちらをのぞきこんで言う。
「どうかした?」
私は首を横に振った。<AO>に来てずいぶんたったが、どうやらこの街はさまざまなものがないようだ、というのがうっすらわかってきた。ようだ、という曖昧な表現になってしまうのは、ひとえに不在を感じることの困難さにあった。それが、「不要なものの不在」であれば、なおさら感じ取るのは難しいだろう。私たち人類が、進化の過程で体毛を失っていき、今もなお残り少なくなった毛の除去にいそしんでいるように。


「ずっと黙っていて、珍しいね。何を考えているの……」
「脱毛のこととか、かな」
適当に答えたのに、リオが心配そうな顔をするからいたたまれなくなった。もちろん体毛はどうでもよかった。AOに欠けているものが、その不在が私を居心地良くさせている、という確信が日に日に増している。でも、うまく言葉にできないのがもどかしい。出所のわからないストレスに押し黙っていると、ちょっと待ってて、とリオが言った。

近くの店に用があるらしい。手持ち無沙汰になった私は、頭上の<ケルビム>を眺める。「交通の円滑化による新たな成果」、と見出しが表示されていた。気象情報やニュースなど、ケルビムに映し出される情報には心躍らされるようなものはなにもない。しかし、巨大な構造物の表面が瞬時に変化するさまは何度見ても飽きなかった。


「――AO全域において新たに導入された交通管理システムの成功により、社会全体の効率性が著しく向上したことを<ネクサス>が発表しました。報告によると、新システムによって移動時間が大幅に短縮され、各市民の可処分時間が平均7%増加したとされています。同システムは、従来の交通管制ネットワークと連携し、市民の移動データをリアルタイムで分析することにより、最適なルートと移動のタイミングを図って交通を管理するものです。ネクサスのメンター・リオ氏は『これにより社会全体が一体となり、より高度な生産性と安定した生活を享受できるようになった』と――」


「有名人ね、リオ」
戻ってきたリオに、ケルビムに映し出された彼の顔を指さして言う。
「そうかもしれないね……」
なんだか歯切れが悪い。それに、ケルビムを見上げる横顔はどこかさびしそうに見えた。
「リオの仕事。メンター……『先導する者』って意味でしょう」
「よく知っているね。水を導くものが必要なように、街も真の調和に至るためには旗を持って導く者が必要ということらしい」
「旗振り役……それがリオってこと、よね」
そうだ、とリオはうなずく。
「じゃあやっぱり、すごいことじゃない」
「でも本当は、旗は目に見えなくていいんだよ……見えないほうがいい、と思っている」
「何それ。目に見えなくちゃ、意味がないんじゃないの」
「たとえば、船を導く光を想像して。暗闇の中では……」
言いかけ、リオが手元に目をやった。何かを買ってきてくれたみたいだ。どちらもフラクタル構造の物体で、左が赤、右が青。


「どっちがいい?」
「どっちでも……」
かろうじて食べ物らしい、ということはわかったけれど。初めて見るものなんて、すぐに選べるわけがない。私は苦笑しながら、リオが差し出した青いほうを受け取った。


「――第3次試験が完了した次世代転移機構『Universe Metric Distorter』、通称<UMD>が、何者かに強奪されました。ネクサスは、装置が不正に利用される可能性を懸念しており、装置の行方を追うとともに、関係者に対する事情聴取を進めており――」


こわごわ口にしたフラクタルの物体は、何かの果物の味がした。シャーベットみたいなものかなあ、などとのんびり考えながら見上げたケルビムに、不穏な文字が踊っていた。この街に来て初めて聞く、明確な“事件”の報道だった。不謹慎だとは思いつつも、少し声がうわずるのを自覚した。
「UMD。私をこの世界を連れてきた装置のこと」
「そう」
「強奪されたって言っていたね。そんなこと、AOでは起こらないのかと思ってた」
「そんな街だったらどんなに素晴らしいかと思うよ。でもね……」
リオの言葉を遮るように、あたり一帯に大音声が響いた。私は思わずしゃがみ込む。落雷かと空を見上げたが、相変わらず晴れ渡っていた。こわごわ立ち上がると、通りを行く人々も皆怪訝そうな表情を浮かべている。


「今の音、何……」
リオは上空の一点を見つめていた。雲ひとつないのに、何を見ているんだろう。彼の視線を追った先に、奇妙なものが見えた。何もない空中にノイズが走っている。まるで、空の映像を映しているモニターに亀裂が入っているみたいだった。あの空も、ケルビムってこと? 私の疑問はすぐ否定された。ノイズは次第に増え、それぞれが手を取り合うように像を結んでいった。無数の星から星座が描かれるように、浮かび上がったのは——


「舟?」


透明な鱗がはがれおちるように、空中に突如、巨大な船体が出現した。思いもよらない光景に足がすくむ。空に浮かんでいるのが不思議に思えるほど簡素な外観は、まるで何かの柱のようにも見える。でも、それはおよそAOには似つかわしくない構造物だった。表面は鉄板を無理やりついだみたいでいびつに波打ち、フランケンシュタインの怪物みたい。武骨を通り越して、醜悪だとさえ思った。船底には何かのメッセージだろうか、読み取れない文字が紋様のごとく描き殴られている。そして、再び音が降ってきた。私は思わず両腕を掻き抱く。


「何これ……リオ!」
音量はさらに上がる。見えない手で押しつぶされそう。轟音、なんてものじゃなかった。じかに内臓をゆさぶられる不快感。地面がゆがんでいるのか、視界がおかしくなっているのかもわからない。私はといえば倒れないように踏ん張り、音の発生源をにらみつけるほかなかった。舟はいつのまにか、外壁の一部が片翼か足場のように迫り出している。そこに、何か動くものがあった。
「人?」
私は音につぶされそうになりながら、必死で空中を横切る舟を凝視する。人間だ。舟の外壁に出現した足場に、人が立っている。さらに信じられないことに、中央の人物の動きに合わせて、音は鳴ったりやんだり、高くなったり低くなったりした。あの人物が、この大音声を生み出している……?

思考は突如、ぶつかってきた男性によって断ち切られた。バランスを崩しよろめく私の横を、何人もの人が走り抜けている。AOに来て人にぶつかられたのは初めてだ、などと考えている場合ではなかった。見れば何十人もの人々が何かを追いかけるように走っている。


(みんな、舟を追いかけているの……?)
私は鈍く痛む頭で考えた。涙まで出てきそうだ。どうして、あんなうるさくて醜い舟を目指して走ってるんだろう。ここから離れなくては、と思ったが、足が思うように動かない。それどころか、人の波に押され、私まで舟の進行方向へ押し流されそうになった。涙目で見上げた空がなぜだか暗い。ケルビムが消えていた。あの轟音で壊れてしまったのだろうか。人なみにもまれる私を、誰かの大きな手がつかんだ。
「行ってはいけない」
「リオ……」


耳鳴りがする。もう音が鳴っているのかどうかもわからない。それでも、リオの声音は私の耳に届いた。リオに手を引かれ、ようやっと喧騒の渦から抜け出た瞬間、安堵で全身の力が抜けた。
「安心して」
リオに抱き止められ、思考が止まる。こわごわ上空を見上げてみると、舟は消えていた。あー、と声を出してみる。大丈夫、もう音もやんでいる。それでもまだ耳の奥、音が聞こえるような錯覚さえした。それぐらいの音量だった。


「なんだったの、あれ……」
リオの胸であー、とかうー、とか言っているうち、次第に正常な聴覚が戻ってきた。周りを見渡すと誰ももう、空を気にしたりなんかしていない。急に気恥ずかしくなった私は、リオから体を離す。
「ありがとう、リオ」


なんだったんだろう、今の。ポジティブとはいえないほうの驚きはAOに来て初めてだった。音や舟もそうなのだけど、何より訳のわからなさが怖い。あれはなんなのだ。なぜ、舟の上に人が乗って飛んでいるのか。そして、ついていった人はなんなんだ。
「今の、何」
リオは答えない。AOに似つかわしくない。醜悪な舟も、あの女の人も。そして音。あれはいったいなんなのだろう。聞きたいことはたくさんあるのに、リオはこちらを見たまま何も言わない。
だからこそ。リオが発した言葉を、私はのみ込むことができなかった。


「君に、彼女を。ノアを見つけてほしいんだ」

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ようこそ、AOの物語へ。

あなたの思考、選択、行動、それらすべてが、
未来に確かに届いて、新しい世界を生み出しています。

この物語に触れて、あなたの行動が変わることで、
あり得たかも知れない世界は、
語ることができる未来に変わります。

私たちとともに、
世界を、未来を、共にかたち創りましょう——

AO
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